文章

始祖の巨人ユミル

始祖の巨人ユミル/Yumir

耳障りにわめき叫ぶ者/オーディンらを産み、オーディンらに倒された原初の巨人。その死体は大地に、流れた血は海と川に、砕かれた頭蓋骨は星となり、髪の毛からは草花、腐肉に湧いた蛆から妖精が生まれた。【wiki】


進撃の巨人は原作もアニメも本当に凄い。今回は特に凄いユミルを紹介しよう。

「装甲をまとって戦う巨人」というコンテンツは戦後の日本で【ウルトラマン→ガンダム→エヴァ→進撃の巨人】と脈々と続いている。特にエヴァはシンジの自意識・プラグスーツ・LCL(羊水=母)・エヴァ本体(科学技術=父)・拘束具・ATフィールド…と、各種装甲、各種逃避のマトリョーシカだ。父性敵怪物と母性的怪物のミルフィーユ。攻撃からの耐性と拒否、敵と味方の二元論が加速して最後に突破される。

進撃の巨人も装甲巨人系譜の中にある。特に面白いのが「巨人を食うと記憶と能力が継承される」というアイデアだ。円谷を食う富野、富野を食う庵野、庵野を食う磯山…日本の各時代を反映し続けるコンテンツ群の厚みに感謝と感激しかありません。この敵と味方に引き裂かれた二元論の物語に橋を架けるキャラがユミルだ。ユミルは斜にかまえている。世界を俯瞰で見ている。彼女自身の生い立ちと知性のためだが、ここぞ!というときは衝動で動く。後先考えない。巨きな世界観を持ちながら衝動でも動ける余裕がある。(年の功か?)だからこそ、ベルトルトの声を聞ける。ベルトルトを見つけられる。団長を助けられる。クリスタから離れられる。このようなキャラがガンダムやエヴァにもいる。
ガンダムのカイ・シデンはカッコイイ。一年戦争後はジャーナリストとなり装甲を脱いで生身で「戦争そのもの」と戦う。そりゃアムロやシャアよりカッコイイ。ユミルもカイと似ている。その三白眼。その口の悪さ。所属集団に固執せず、だからこそスパイも助ける。だからこそ「戦争そのもの」を陣営を越えて見ることができる。達観しながらも、結局は戦場に身を投じる。それも軽やかに。

エヴァではカヲルくんだろうか?ナゾの宗教組織のアイドル。偶像。入れ物。そんな境遇のためか他人との心理のやりとり・交渉に慣れている。他人の体によく触る。同性愛的。物語のナゾそのものの役目を担う。(ユミルも偽だが始祖の名を与えられている。)誰か一人だけを助けようとしている。しかし最後には「その誰か一人」から離れ、戦いそのもの・世界観そのものに終止符を打つため自身を犠牲にする。


ローロー :2017/06/21
 

世界の肌に触れたい
肉壁に触れたい 脈を感じたい

我らを包んでいた世界の肉に
いつしか大きな柱が刺さり
白い塩の柱が刺さり
その体温から遠ざけられた

全方位からそびえる柱に支えられ
人を世界から隔離したコロニーの地平
嘘の風を吸い
仮の水を飲み
偽の土を踏みしめる
炎だけが本物だ 炎だけが……

かつての人は
見えない翼をもち
見えない牙をもち
見えない尾をもち
世界の肌に額をつけて 感じていた
最小から最大に至るまでの
膨大な生と死の波打ち際を

暖かな暗がりの中で
顔の見えない母の中で
世界の肉に接吻しながら
保ちつつも溶け合いながら



竜胆ヒマワリ:2017/06/24
辛福な皇子 

 砕かれた顎
 摘まれた乳房
 毟られた脇毛
 断たれた四肢
 両目だった穴からは泉が湧き
 抉られた心臓からは血の海だ
…そして蛆が湧く

 奪ったモノの上に肥えながら
 失くしたモノのために飢えながら
 腐肉の毒にぬたうち生きる
 星の欠片を継ぐ子どもたち

 東西より持ち込んだ凶兆で
 オロンパス(世界の臍)に梯子を建てよ
 古今への吉兆を祈り
 天まで延びた、その梯子を燃やせ

 泣け、喚け
…白く透明な蝿に成るまで
 狂え、踊れ
…上昇する気流に乗るまで



ローロー:2017/06/24
昇天十字軍 

僕の哀れなお母さん
瞼は開き 口は開き 指先は二度と握れない
僕の哀れなお母さん
虹が刺さり 海水が染み込み 散り散りに分かたれていく
そうれ 皆、運動だ
隊列組んで運動だ
ぬるく潤う母の大地で
おぞましいほど幾何学だ

そうれ 皆、上を見ろ
唇かんで上を見ろ
空の青さに紛れた隆起が
届かぬ僕らの父さんだ

お母さんから沢山奪って
至天に隠れたあのろくでなし
入道雲を侍らせながら
星降る夜に白く湿った
ミルキーウェイとしけこむぞ

お母さん
近い未来に僕たちは
白い羽もて空隊組んで
甲斐性なしを撃ちに行く
夢見るあいつの天之鉾に
幾千の唾吐きかけて
お母さんの似顔絵かいた
僕らの旗を立ててやる

お母さん 僕らは命短くて
お母さん 明くる朝にはロストする
お母さん 僕らは光に憧れて
お母さん 頭数とて切り崩す
お母さん……!

100分 de 名著 『野生の思考』 



タグを付けてやる

NHKで放送されていた伊集院光さんの『100分de名著〜野生の思考』。私は中沢新一さんの本は楽しく読んでおり『野生の思考』という言葉も知っていましたが、レヴィ・ストロースは『悲しき熱帯』は挫折しています。この番組でトーテミズムとタグ付けの関係を知りました。これは面白い。

人間にはタグ付けする能力があります。物質、現象、概念など目に見えるもの見えないもの全てに名前をつける能力です。例えば、私の住んでいる秋田県秋田市は海側は大和朝廷の文化圏であり、内陸部はアイヌの文化圏という境界に位置しています。アイヌは氷河を動物を追って歩いて日本に来ました。ヤマトは稲を担いで船を漕いで日本に来ました。

◉北から歩き。狩猟動物神・水平に移動・タンパク質。
◉南から船で。稲作植物神・垂直に成長・炭水化物。

植物神にも細かくタグ付けしイメージが細分化。
◉樫神・高く枝を張り、深く根を下ろす永続的な世界樹。学問的
◉稲神・毎年枯れ、毎年育くむことを永遠に続ける稲作。生活的

このようにタグをつけ、モノ・イノチ・コトが複雑に絡み合った世界の全体性を捉えます。そして朝夜、春夏秋冬、生と死といった時間の概念を知り、個人の死を越えるために山河神・植物神・動物神・星神のイメージを精妙に組み合わせ、宗教や国家ヴィジョンや金融システムを造りだします。このタグを付ける力こそココロの働きです。

モノ・イノチ・ココロを組み合わせ、料理を作ったり、家を立てたりと様々なコトができるのが人間です。そして、ゆくゆくは科学(知ろうとする力)と技術(加工する力)で宇宙さえ造れると夢想するのが人間です。この力強さに私は酩酊します。そして「今を生きる」とか「幸せ」とかを見逃すのです。

しかし、テクネーが(=知性が、=人間が、=生物が、)宇宙の中に宇宙を産むための装置であり、臓器であるというヴィジョンも捨てがたくあります。そのヴィジョンが、そのヴィジョンそのものを崩壊させるのを避けるため、私達はのんびりと他国の文化や、隣人の庭や、宇宙人の遺跡を巡らないといけないのかもしれません。

レッテルを貼ってやる

言葉の意味としては同じですが、レッテル貼りはステグマや烙印を押し、グループから排除するために機能します。(ミュート機能)タグ付けはグループに入れるために機能します。これは正反対の機能でもあり、同じ機能でもあります。タグ付け人の思考回路を整理する機能だとしたら、レッテル貼りは偏見や思い込みを回路にドンドン積む行為です。思考回路が淀むと社会も淀みます。

番組内でも近代建築思考とブリ・コラージュの対比が語られていましたが、料理で例えてみます。近代的思考はチェーン店の料理。栄養・鮮度・コストが最適化されますが、大量の食品廃棄も起きます。ブリ・コラージュの料理は冷蔵庫の中を片付けるための料理。毎回、栄養バランス良くて美味いわけではありませんし、お腹に余分な脂肪もつきますが、食品廃棄は防げます。社会とは、この両者がせめぎあう最前線に「両者にとってイイ場所」があるというヴィジョンによって成り立っています。

タグとレッテルを外す

しかし、やっぱりタグ付けもレッテル貼りも同じ機能です。人間は善悪・好き嫌い・快不快を思考によって停止させ世界を明瞭に認識できるかもしれません。しかし、善悪・好き嫌い・快不快によって人間社会はつくられています。しかし、個人の脳内なら可能です。

ゴーンガール

ゴーンガール【ネタバレガンガン注意】

私の大好きなデヴィット・フィンチャー監督作品。一見すると『氷の微笑』『危険な情事』など”全米の男どもが震えた系”の映画に見えますが、ジャンル映画の枠を超えて実に面白かったです。社会派サスペンスあり、ブラックコメディあり。私は『種の起源〜スピーシーズ〜』『雪女』『崖の上のポニョ』『寄生獣(田宮良子)』のような異類婚姻譚としても楽しめました。男にとって女は異種なのだから。

鶴女房・蛇女房とは?

山神の化身が人間の男と結婚するパターンです。自然の富を与える代わりに掟を課し、破ると婚姻関係は消滅します。『メリジェーヌ物語(フランスの蛇女房モノ)』では、妻の正体が竜であることを夫は知っていますが、掟を守っている限り(風呂を覗いてはならない)婚姻関係は保証されます。『崖の上のポニョ』でも宗介はポニョの正体を知っており「身元引受人」という法律用語的な言葉で”契約”しています。同じく『ゴーン・ガール』も正体を知っていても他言は無用という映画になります。ミズーリの生き物とニューヨークの生き物の異類婚姻譚です。ここでは秘密の共有が夫婦の絆をより強固なものにする予感が描かれています。

題名「GONE GIRL」とは?

gone girl?少女って年齢じゃないよね?変な題名だな。まずgoneの意味から。過ぎ去った/死んだ/見込みのない/滅入る/妊娠している/夢中になるなど。ふむふむ。

ふいに宇多丸さんの『ノーカントリー』評の題名の超訳を思い出しました。「私が愛した古き良きアメリカはすでにない」または「そんなものはそもそもなかった」的な題名だそうです。

これを『ゴーン・ガール』に置き換えれば「私が愛したエイミーはすでにいない」または「エイミーなんてそもそもいなかった」って感じ?

『ゴーン・ガール』も”失踪少女”ではなく”家出娘”と訳せばいろいろ見えてきます。血を抜いて床に塗りつけたり、変装したり、自傷に躊躇がなかったり、自死を夢見たり。家出の計画とそれを遂に実行するワクワクビクビクの文学少女という眼鏡で見ると、エイミーの不合理な点にも合点がいきます。

ニックの双子の妹マーゴは、比較的安心できるイイキャラです。彼女は半身であるニックがエイミーに奪われたと思っているでしょう。そういえばエイミーにもアメージング・エイミーという常に先を歩く分身がいました。物語の中にしかいない分身。エイミーはサイコパスというより、物語に呪縛された少女と理解すべきかも?「私は戦士よ」とか「普通の女であなたが満足するはずがない」とか物語のキャラクターしか言わないもの。

 

物語と現実、物語を擬態した現実、そして真実。
そのグラデーション。

初見ではエイミーは母親の物語に閉じ込められてサイコパスになった、という見方をしてきましたが、よりポジティブに再解釈してみます。少女だったエイミーはアメージング・エイミーに競争させられ、反抗し、独立し、ニックと出会い物語から開放されます。しかし、その生活は下降し破綻寸前。そのどん底でエイミーは物語を紡ぐ力を思い出し、実体化する覚悟をします。

ディズニー風にいえば、呪術に長けた女王に育てられたお姫様が、反発心から騎士と駆け落ち。ブリキの鎧を剥ぎ取れば貧乏農家の次男坊。惨めな暮らしが嫌になり、家出したなら山賊に身ぐるみ剥がされ、ドラゴン城に逃げ込んだ。自力でドラゴン退治して、農家の倅(せがれ)を騎士にするため舞い戻る。ありとあらゆる呪術を使い、騎士を王に仕立てあげ、母の呪術を超える算段。

こうして見てみると、喉を掻っ切るシーンは悪竜ファフニールの血を浴び不死身となったジークムントを思い出させます。(…だとしたら血を浴びてないキレイな顔が弱点に?)そこでの衣装は従順の白いドレスでも反抗の黒いドレスでもなく、新生の赤いドレス!エミリーはガールからアマゾネスにクラスチェンジし、ゆくゆくはクィーンにもなれるでしょう。エイミーの企ては、物語のエイミーと生身のエイミーが融合し、”真・エイミー爆誕”の超弩級燃え展開の過程だったのです!?……そして、憎んでいた母の呪術教育が武器だったと感謝するかもしれません。

これは失われた物語の力の復活の狼煙です。しょうもない王子しか出てこない『アナと雪の女王』も同じ頃の映画でした。『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』でも失われたアメリカを復活させる物語の気概を感じました。

ワイドショーとSNSなんかなくても、人々は自分にキャラを、獲物にレッテルを貼りながら社会を運営してきたわけですから、現実と物語の混同はとうの昔につかなくなっているのです。エイミーはそんな社会の中で役割を演じることに自覚的になることで少女から母へと脱皮しようとしています。 

寄生獣の田宮良子

エイミーを見ていると『種の起源〜スピーシーズ〜』や『寄生獣』の田宮良子の擬態を連想させます。社会を理解する学習力と即実演する試行力は憧れます。特に田宮良子は擬態が脳まで馴染み、笑いが自然に込み上げるところまで習得しました。もう少し時間があれば涙を習得し、デート技術や結婚技術、子育て技術まで習得したでしょう。擬態する快感にも目覚めていたはずです。

しかし、それ以上に「我々が存在する謎」への興味が上回ったため、彼岸へと過ぎ去ってしまいました。彼女は私にとっては重要なヒロインです。『her〜世界で一つの彼女〜』のサマンサも似ているな。

スピーシーズ〜種の起源〜

あらゆる手段を使って、生命は増殖していきます。エイミーとニックが子供をどんなふうに育てるか?という第2ラウンドも面白そう。そういえばエイミーやニックの両親についても手短にですがキチンと描写されています。やはり親子三代が出てくると物語に説得力がでてきますね。サイコパスにも親がいて、子がいて血族が紡がれます。結局、私たちはずっとこんな調子だったし、これからも同じなんでしょうね。……うん。

世紀末の詩〜第10話 20年間待った女

“愛”に関しても”真実の愛”に関しても、常に女が男の一歩先を歩いています。『ゴーン・ガール』において話が大きく転換するのは、ニックの釈明会見を元ストーカー金持ち男の隣で見るエイミーのシーンです。アゴを触るのを見て、エイミーの目は輝きます。見どころがあると思っていたニックに失望しかけたけど、土壇場で、やはり自分の目に狂いがなかったと知るのです。元ストーカー金持ち男にはない見どころがニックにはあるのです。

そして当初のプラン【プラン1・夫を死刑にする】【プラン2・プラン1に失敗した場合、自死する】が破棄され【プラン3・夫の元に帰る】が提案され、実行されます。いや、そもそもの望みは【プラン3】だったはずです。

エイミーは”演じる”ことが生きることだと教育され、挫折し、今、再自覚しています。その中で”真実の愛”とは何でしょうか?エイミーに自死せずに生きようと思った価値とはなんでしょうか?

それはニックとエイミーの間だけに通じる合図であり、秘密です。一見すると他愛もないことですが、まさに他では手に入らない愛です。アゴを触る合図(2人だけの秘密)。

エイミーは自己防衛で元ストーカーを切り裂いたのではないという秘密(エイミー、ニック、マーゴ、女警官、弁護士の5人だけの秘密)。結婚とは搾取しあう関係だと口に出せる関係(公然の秘密)。これらの秘密がニックの器には入るのです。今後、エイミーの自伝『ミラクル・エイミー』は母の本『アメージング・エイミー』を超えるでしょう。そのゲームにニックは付き合えるのです。付き合う気があるのです。少なくとも18年間は。

『世紀末の詩〜20年間待った女』でも、暗い秘密を抱えた二人の愛が、二人にしか通じない暗号で表現されます。ゲーム相手。共犯者。暗号。秘密。

▶ 宮台真司/『ゴーン・ガール』はベタ女の〈委ねによる眩暈〉に対抗するメタ女の〈眩暈〉を示す 
▶ 水道橋博士と高橋ヨシキの「2014ベスト映画」特集「ゴーン・ガール」ほか
▶ たまむすび/町山智浩
▶ 映画ウォッチ超人・シネマンディアス宇多丸/『ゴーン・ガール』

ターミネーター

ターミネーター2

これも生涯ベスト10に入る映画。

私の妄想内のスカイネットは、自我に目覚めて人類を殺すのではなく、無意識による嫉妬で人類を殺して「しまった」存在です。スカイネットは世界中の研究をハッキングして組み合わせ、ロボットアームで形にするプロジェクトの進行中にタイムリープ装置を完成させます。そして、世界の終わりと世界の始まり、物質と反物質が整然と並ぶ場所も見ます。その場所で対称性のねじれを生じさせた「人間」のヴィジョンを見ます。その嫉妬により「無意識(と意識)」を手に入れ、核のスイッチを押してしまうのです。スカイネットは人類を無関心から抹殺するのではなく、強い興味を持ってて欲しいな。

 

意味があるのか?ないのか?意味ではないのか?

ユダヤ教の開祖モーセはエジプトで奴隷同然の暮らしをしていた2万人の同胞を連れ荒野を旅します。その苦しい生活を支えていたのが「乳と蜜が流れる約束の地」という「意味」です。

釈迦は、なぜ人は生き、老い、病み、死ぬことに苦しむのか?この苦しみは抜けるのか?この問いは全ての因果を探ろうとする理性の力によるものです。そして『安らぎ』に辿り着きます。釈迦は人々が安らかに暮らせるように山を降り里にでます。この世界は意味のために在るのではないと。

どちらも人々の幸せを願っての考えです。この2つの考えをSF的に考えてみます。この宇宙には無数の星がありますが、その殆どは死の星です。その中の幾つかには生命があり、幾つかには知性があり、幾つかには宇宙に進出できる技術があります。そして、空間を捻じ曲げワープし、空間を折りたたんで持ち運ぶ集団もいるでしょう。時間を遡って因果に干渉し、ある特定の一族を導く守護天使的な力は『インターステラー』にも登場します。また、『メン・イン・ブラック』のように宇宙を持ち歩く者もいるかもしれません。理想の宇宙を創り持ち歩く。このレベルに到達するのがユダヤ・キリスト教では「約束の地」とか「救済」と呼ばれる「意味」とします。仮にね。

仏教では、個人の安らぎは個人の能力で十分可能だと考えます。それは「今」ある幸せを噛みしめるだけでいいので、良い社会システムや高い技術による理想郷を必要としていません。かえってその理想郷の到達しよう、創造しようという行為と挫折が苦しみの温床になるのだと。

人間の社会と精神はこの2つが斑模様に点在し、住み分けたり、交じり合ったり、ときには機能衝突する薄暗闇の世界です。が、極稀にこの2つの考えが同じ意味に感じられたり、一個の生命のように機能する場合があります。

それは、なにかに夢中になっている時です。映画や写真の世界ではマジックアワーとよばれる薄明の時間帯です。「桐島〜」でも虚無の中にいるヒロキと、夢の中にいる前田が出会う瞬間は夕暮れでした。苦悩や痛みが芸術に昇華され、脈打つ知識になる瞬間です。ロメロやワーグナーやイチローに繋がる瞬間です。

私達の脳こそがワープ装置であり、タイムマシーンなのかもしれません。・・・映画もね。

桐島、部活やめるってよ



高橋優:陽はまた昇る

桐島、部活やめるってよ

最初は「スクールカーストの話でしょ。ヤダよ」って感じだったんですが、BSでやってたんで視聴。見終わった後も「そこまで評判になるような話か?」という第一印象でした。

しかし、1日たっても2日たっても、この映画が頭から離れません。なるほど、作品で完結というよりは、見た人間の思い出や世界観を次々と浮かび上がらせて繋げる、触媒映画のようです。中央の空白という構造のせいなのでしょう。

私の映画の好みは基本的にSF、ファンタジー、ホラー、ギャングですが『今を生きる』『アレキサンドリア』『リンダリンダリンダ』など学園ドラマも結構、思い出しました。桐島はなぜ部活をやめたのか?ゲームを降りるとは何か?で連想した映画を紹介します。


今を生きる

これも『桐島…』と同じように、ゲームから降りて、別のゲームに参入しようとした男の子の話。中1くらいに見たのかな。字幕で見た最初の映画であり、家族と一緒に見た最後の映画です。号泣号泣で、誰かと映画館に行くのはマズイ場合もあると知った映画でした。詩への興味も持たせてくれ、生涯ベスト10に入ってます。このサイトでも大量に引用しています。

特に重要なシーンは引っ込み思案のトッドが壇上で詩を披露するシーン。多くの生徒が詩の披露を恥ずかしがって適当に作った詩でお茶を濁しており、トッドは詩を作ってもいませんでした。キーティング先生はそれを見抜いていましたが、トッドを無理やり壇上を上げ、教室の後ろに飾られたヴィトゲンシュタインの肖像画で即興詩を絞り出させます。その詩に教室の皆が次第に引き込まれ、最後は拍手喝采。トッドは皆に一目置かれるようになります。

このキーティング先生の導き方も素晴らしいのですが「皆が言葉にできていないモヤモヤを正確に表現できる人間は一目置かれる」という描写が実に素晴らしい。正確な言葉を正確に配置すると正確な思考回路が動き出し、人々に道を示すのです。


アレキサンドリア

4世紀エジプトの美女天文学者ヒュパティアの物語。エジプトの神々とギリシャの神々が同居する神殿での講義シーンから始まります。やがて、この神殿はユダヤ教からキリスト教に切り替わる時代の激流に飲み込まれますが、ヒュパティアは「真理」のためにこの激流に抗います。『桐島〜』での同調圧力は、ここでは目に見える激しい暴力と恫喝です。


リンダリンダリンダ

これは『桐島〜』とは似てないな。真逆?裏面?吹奏楽部の子の立ち位置に似ている映画です。

ペ・ドュナ目当てで見たんですが、いや〜心地いい映画でした。学園祭のバンド祭りでの『風来坊』が最高なんですよ。『天使にラブ・ソングを2』『スクール・オブ・ロック』系列ですね。青春映画と音楽は相性が良いな。

エッグ

スポーツも芸術も、誰と誰が付き合うかも『オーナー』に支配されている世界。彼らはこの支配から卒業できるのか?

613ST0KXbgL._SX351_BO1,204,203,200_-min

悪魔くん千年王国

『悪魔くん、学校辞めたけど戻ってきたってよ。』これも「この支配からの卒業」モノ。

メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬

片田舎で夫婦生活を送る元アメフトヒーローと元チアリーダーのカップル。彼らは30才を過ぎてからある事件をきっかけに、学校時代から続いていたゲームを卒業させられます。

▶ TBSラジオたまむすび「山里、JUNKやめるってよ」
▶「桐島、部活やめるってよ」 町山智浩
▶ 町山智浩の映画塾!「桐島、部活やめるってよ」
▶ 観たなら皆で語ろう!1

崖の上のポニョ

ponyo01_min

ポニョが好き

私は根っからのジプリファンですが「○○が一番すき!」ってこともなく、どの作品も見るたびに「最高傑作だ!すばらしい!」と思ってしまいます。ポニョもそう。

あとラジオも好きでして。『伊集院光の深夜の馬鹿力』や『たまむすび』→その流れで町山智博さんや宇田丸さんの映画批評も好んで聴くようになったのですが・・・ポニョは酷評なんですよね。他の映画批評は何でも楽しく聴けるのにポニョの回だけ怒りで最後まで聴けません。

そこで気付きます。私はポニョが大好きだったのだと。

▶ 町山智浩/人の親としてポニョで許せないこと
◉ 海水魚を入れたバケツに水道水を注ぐ子ども
◉ 息子に名前を呼び捨てさせる過剰に民主主義的な両親
◉ 幼い息子を乗せて危険運転を繰り返す母親
◉ 洪水の夜に5歳の子どもを自宅に置き去りにする母親

ナウシカ⇒もののけ⇒ポニョ

この物語は生命の始まりである海から始まります。海は生命の源であり人間にタンパク源と経済の流通路と娯楽を提供していますが、生身の人間は10分も潜ったら窒息する死の世界でもあります。暮らしを支えている死の世界。このモチーフは『風の谷のナウシカ』の腐海でも語られています。ここで少し『ナウシカ』や『もののけ』について振り返ってみましょう。まず腐海は、

◉ 人間に毒と物資を与える自然であり
◉ 人間から攻撃されたり保護されたりする自然であり
◉ 人間文明が創った人工の自然でもあった(漫画版)

宮崎さんは戦争・原爆・高度成長・公害の時代を生き「人間や文明は世界を滅ぼすかも?」という危機感を強烈に持った世代です。しかし『漫画版/風の谷のナウシカ』を執筆以降、人間の文明も野生の一形態であるという着想を得たようで、樹を切るな!→樹を切ったら植えよう、にシフトしたように見えます。

『もののけ姫』でのシシ神=ダイダラボッチも「命を与えもし、奪いもする」という二つの側面がある神です。さらに

◉ 昼には人面獣体の姿で、動物にシシ神(=ケモノの神・自然の神)と呼ばれる。
◉ 夜には獣面人体の姿で、人間にダイダラボッチ(=タタラの神=製鉄の神=文明の神)と呼ばれる。

ポニョとグランマンマーレが汚い海をそれほど気にしておらず、機械に活力を与えることも厭わないのは、こうした”清と濁・文明と自然をわけない”思考から来ているのかもしれません。しかし、文明も自然も食うも食われるも同価値とする神は、日々を汲々と暮らす我々には脅威にもなりえます。ですから、この原初の神を、国を生んだ神・人間を生んだ神・商業の神・縁結びの神というように社会を安全に運営するのに適した大きさにまで切り分けるのです。こうして原始的な神は縮小され、エビス様や招き猫へと姿を変えていきました。我々の思考回路も同様です。

しかし、強力なバリアに守られチェックされ続ける人間社会は徐々に生きる意味を見失いはじめます。命を大事にしすぎて、バリアに包みすぎて、命がなんなのか忘れそうになるのです。その隙間にオウムやテロといった虚無的な勢力が蔓延りはじめます。

しかし安心?してください。嵐に乗って少女がやってくるのです。

▼ 漫画版ナウシカの「生きねば……」の悲壮感
▼ もののけ姫の「生きろ」の義務感
▼ ポニョの「生まれてきてよかった」の祝祭感

 Smart Way! オータム マガジン/ポニョという作品にはある種の筋を通した合理性が存在する

ponyo03-min

リサの力

この映画は不思議で説明不足なシーンが連続します。例えばフジモトがリサの家の結界に気付くシーン。

「本格的な結界が張ってある。どこでこんなことを覚えたのか?」

初見時はポニョが張ったのかと思いましたが、そんな描写はありません。そこで柵の持ち主であるリサが張ったんじゃないか?と想像してみました。

宗介が赤い服の女の子がポニョだと見破った瞬間、世界が輝きます。これは『千と千尋の神隠し』のラストで豚の群れのなかに両親がいないと見破ったシーンにも似ています。この輝く空を見てリサは「何か、ただならぬ状況が起こりはじめた」と瞬時に察知した表情をします。そして目の前の小さな女の子は異界から宗介を奪いに来た客だと認識し、全力で対峙する覚悟をします。

「どんなに不思議で、うれしくて、驚いても、今は落ち着こう」

そのもてなしはポニョの魔法の力を文明の力で押さえ込む技が駆使されます。

◉電気の灯りや音楽
◉言葉の力=次に何をするかイチイチ言葉にして誘導する
◉食べ物の力=その世界の食べ物を食べるとその世界の住人になる

このリサの儀式は、ポニョを(不完全ながら)人間にすることで異界との穴を(応急的に)閉じさせ、波を低くさせたのかもしれません。『魔女の宅急便』のウルスラや『ハウルの動く城』のソフィーのような潜在的な魔法使いのようにです。

そしてグランマンマーレの儀式によって、ポニョは完全に人間となり世界の綻びは完全に閉ざされます。

▶ 心を支える心/忘却のスープ/グループソウル/山の上のホテル/ユング心理学

kyosinhei-min

名前をつけてやる

ポニョをもてなすさいに、リサの家のガス・水・電気が行政システムから独立できることが丁寧に語られます。同時にモールスや電波で夫と交信するシーンも描かれています。これは一体、何のための描写なのでしょうか?

伊集院光さんの深夜ラジオで「宗介が母親を名前で呼ぶのが気持ち悪い」と話していました。私は「そんな家もあるかもな。父親(リサにとっては夫)が不在なんだし」くらいにしか思いませんでしたが、そういえば『千と千尋の神隠し』でも「名前を奪って支配する・名前を思い出せば解放される」というモチーフがあました。『風の谷のナウシカ(漫画版)』でも巨神兵に名前を付けると神になるシーンがあります。宮﨑駿さんは名前の魔力に関して思うところがありそうです。ここは、すこし深読んでみましょう。

ポニョも父親を「フジモト!悪い魔法使い!」と呼びます。もう名前ですらなく名字です。(グランマンマーレは「お母さん!」。これは名前というより名付けれないほど大きな存在という感じ。漫画版ナウシカの巨神兵オーマも太母という意味らしいし。)逆にフジモトは「ブリュンヒルデ」と呼んでいた娘を物語後半からはあっさり「ポニョ」と呼び、自分の支配が及ばなくなった存在だと認めています。

名前に関する最重要シーンは、やはり嵐に乗ってやって来た赤毛赤服の少女を「ポニョ?」と見抜くシーンでしょう。この「見抜く力」は、母親を「リサ」と呼ぶ環境から身に付いたのかもしれません。目の前の人間を所属や役割から判断するのではなく、そのまま、そのものを見る力。

またポニョが「宗ちゃんじゃないよ宗介だよ」のセリフにも私たちを貴方たちの都合で扱わないで!という主張が読み取れます。

私も父母を名前で呼びません。…が「それが異常だ」と思わない風土で育ちました。両親にも名前があるのに、息子がその名で呼んだことがないというのも不思議と言えば不思議です。

 

ponyo10_min

人は昔々、魚だったのかもしれないね

なぜリサには、こんな力があるのでしょうか?リサは微かな魔法使い(さらに機械にも波にも詳しい)であるという、私の勝手な想像を押し進めてみます。

リサの荒々しい運転・荒々しい愛情表現は、まるで大きくなったポニョのようです。…ひょっとしたらリサも元人魚?!ポニョの年のはなれた姉?…そういえば、グランマンマーレ・リサ・ポニョには「波を読める。機械を直せる、または機械の操縦に長ける。愛した人が海の男。」という共通点があります。

◉ グランマンマーレの愛人・フジモト。ヒレ船の船長。
◉ リサの夫・康一。小金井丸の船長。
◉ ポニョの恋人の宗介。ポンポン船の船長。

リサは元人魚であり、愛した康一に「リサ?」と名を呼ばれ人間になったのかもしれない!?そして、そのことが誰か(観客にも!)に知られたら泡になってしまう掟なのかも!?

この空想のお陰で解けた謎があります。それは「異界から訪れたポニョと可愛い息子を二人きりにして、なぜリサはひまわり園に向かったのか?」という謎です。最初は彼女の職業意識かと思ったのですが、 どうも不自然です。あんなに大好きなはずの夫も息子もほったらかして、暗闇に動く光を見てひまわり園に向かい、そこでグランマンマーレと長いおしゃべりをしているのです。まるで彼女に会いにいったかのようです。

リサが元人魚であったのならば、ポニョと宗介を二人きりにした意味も、グランマンマーレとの長い会話が聞こえない意味も明確に想像できてきます。

リサ「私が19才で受けた試練を5才の宗介とポニョにできるでしょうか?」
ママ「だいじょうV」

では、なぜ宮崎さんは、なぜこんな複雑な脚本にしたのでしょう?宮崎さんは『もののけ姫』以降、一見しただけでは不自然・意味不明に見える描写を作中に散りばめ始めました。これは【1+1=2】的な映画より、【1+X=2】的な映画の方が問題を解く分の面白さがある、という単純な理由からだと思われます。
そのうえで、この「読み解く能力」は映画を楽しむ力だけではなく、社会を構成する力だとも考えている!……かもしれません。

◉ 見抜く力が物語を展開させるシーンがそもそも映画として面白い。
◉ 映画を読み解くのも映画の醍醐味のひとつ。そのための虫食いシナリオ。
◉ 世の中を読み解き受け止める男の子が増えて欲しい、そんな男の子を育てられる母親が増えて欲しいという監督の願い。(=女の子は大丈夫。)

「見抜く・読み解く・受け止める」が、シーン・シナリオ・テーマといった異なった次元で語られ、また映画として融合しています。そして『ポニョ』を見た子供たちは「語られてはいないが私の母はグランマンマーレの娘」であり、「忘れてはいるが私もグランマンマーレの娘」であることに、いつか気付くのでしょう。この魔法は将来、女の子が男の子をゲットするときに役立つはずです。…男の子は相手の正体が魚や豹や蛇や兎だと見抜いたうえで受け止めてください。

▶ Dog Planet Cafe~犬惑星~/本当は怖いポニョの都市伝説

ponyo04_min

宗介の力

『鶴の恩返し』や『雪女』といった異類婚姻譚では「自然界の力を持った女の問いかけに、間違った応えをした男が酷い目にあう」物語が数多くあります。財産を取り上げられたり、子供を奪われたり、目を潰されたり、国を滅ぼされたり。しかし、宗介は様々な問いに的確な応えを「し続け」ます。

何気ないシーンですが、それを象徴するシーンがあります。宮崎アニメにたびたび描かれる【男の子が女の子のために暗闇の中で火を灯す】です。パズーやルパンが暗闇でマッチをする場面では大抵1、2回は失敗しますが、宗介のポンポン船は一発で出発します。宗介が今までの男共とはチト違うという意味であり、サンと離れて暮らすことを選択したアシタカより、度量の広い男なのかもしれません。

宗介がさらに凄いのは、ヒロインは化け物だし、状況は解らんし、いつのまにか世界の運命が賭けられてるし、よくパニックにならずに大大円まで行けたもんです。 握手を求めたフジモトの気持ちがよぉーく解ります。このシーンが一番ホロリとしちゃうなー。

…ただ少し気がかりなのは、宗介からしなければならなかったキスをポニョからしちゃうところです。神話や民話のパターンからいうと、これはチョットまずい。でも、まぁいいか。

▶ blackbird diaries/小さな正義・小さな方法論で何かを解決したように錯覚させるドラマはもうやめにして、この世の混沌を認識してそれでも自分の暮らしを生きる話にする

▶ whimsy inflorescencia/男の子の教育に失敗したら、世界は滅ぶ

ponyo11_min

フジモトの力

宮崎アニメ伝統の「自然vs文明」とか「世界の危機」を背負っている芸術家風の男。グランマンマーレに恋して人間をやめているようです。少し紅の豚とカブりますね。

生命と機械が融合したような船に乗り、高純度の海のエキスを抽出したり、海底牧場を運営するなど、非常に「科学者的な態度」で海とつきあっています。

しかし、他の宮崎作品の「自然vs文明」キャラに比べると随分と滑稽に描かれています。だって、世界の危機を叫んでいるのはフジモトだけなんですもの。ポニョもグランマンマーレも汚い海も原初の海もそれほど気にしていませんし、機械に活力を与えることも厭いません。

またフジモトには境界線に関する描写が繰り返し描かれます。海では空気の膜に覆われ、陸では深海の水が撒かれた場所しか歩きません。人間文明の廃液が混じった海水を嫌い、純粋な海のエキスを抽出し貯めています。これらは清浄と汚濁を分けて考えているという描写です。宮崎駿さんがよく使うモチーフであり、グランマンマーレの大きさにはなれない男たちのテーマでもあります。

他に印象的だったのがリサの家の柵を越えられないシーン。魔法がかかっている地域では人を入れたくない場所には柵を立てるだけで十分ですが、魔法がかかってない地域では高いコンクリの壁と鉄条網が必要になってきます。

フジモトの理想はデボン紀の海。いろいろ難しい理屈はこねてるようですが、ただ単にグランマンマーレが懐かしんだ海をプレゼントしたいだけなのでしょう。…まぁ、当のグランマンマーレは奇麗だろうが汚かろうが、海は海だと気にしないんでしょうけどね。

 山口敏太郎の妖怪・都市伝説・UMAワールド「ブログ妖怪王」フジモト=手塚治虫・グランマンマーレ=ディズニー・ポニョ=宮崎駿説

ponyo12_min

ポニョの力

「死の世界」を表現しようとして「生の世界」が表現されことを『ポニョ』は見せてくれました。この【テーマの怖さ?】と【表現されたモノの楽しさ?】を、そのままを具現化しているのが主人公のポニョです。ポニョはおぞましくて可愛くなくてはいけません。生命がそうであるように。ここで「海水型ポニョを水道水に入れて大丈夫?」を考えてみます。まずポニョは

(1)フジモト研究室のキレイな水槽を抜け出して
(2)生命豊かな海と戯れ、
(3)港の汚れた海に辿り着き、
(4)リサの家の貯水タンクの水(おそらく雨水)に入れられ
(5)ひまわり園の水道水(塩素入り)に入れられ、
(6)フジモトによって(1)に連れ帰されます。

フジモトが「汚らわしい人間たちを一掃するため」に貯めていた海のエネルギーでポニョは人間に変身し、人間の男の子に会いにいくのです。素晴らしい構造です。その後も、

◉ 舞台が海→陸→文明社会→航海→船が沈み→トンネル
◉ 姿形も魚→両生類→鳥→人間→トンネルでの先祖帰り
◉ 何度も寝て起きる

メタモルフォーゼが波のように行きつ戻りつ反復されます。飛躍して考えると、息がしにくい現代社会も、魚が陸に上がったように克服できるフロンティアだと考えたい。人間の知性と技術への制御については『ナウシカ』で考え抜き、少し悲しい気分になったので、今日生きるため、明日生きるために開き直ったのかも?

そしてポニョを受け入れた宗介に握手を求めるフジモト。人間をやめたポルコもフィオのキスで人間に戻り、人間に嫌気が差している監督も子供に出会うと、やはり嬉しい。だからこそ宮崎さんの作品はテーマが暗く重くても、表現としては明るく風に乗れるのです。それこそ生命。これこそ芸の術。 

▶ God & Golem, Inc. /あなたは中間存在を愛せるのか/「変身した姿」が不気味なのではなく「変身する過程そのもの」が何度も繰り返されることが不気味なのです。

ponyo13_min

津波後の世界は死後の世界か?

さてラストのアレは死後の世界なのか?という問題です。初見時は「あの洪水を生き残ったのはトキ婆さん・宗介・記憶を失った赤毛の女の子の3人だけ。その女の子のための作られた物語が『崖の上のポニョ』だ。」ということにしました。…しかし、どうなのかなー、それじゃあんまりだなー。

「この世に悲劇は尽きることはない。そんなとき物語にはどんな力があるのか?それこそを子供たちに知って欲しい。しかし、そんな作り物を子供たちに見せたくもない。」宮崎さんはそんな葛藤を持ちながら作り始め、作り終えたのかもしれません。

結果、ポニョが港の人の命を奪った物語にも、老人たちにエネルギーを与えた物語にも読める作品になりました。視聴者も、その日の気分によって読み変えられるのですから2度美味しい。これが演出技術だとしたら凄い!…んですが、恐らく強引にラストをハッピーにしたんじゃないかなー。物語の引力に従うと悲劇になるところを、作家の意思でハッピーにするというのも、強力な福音です。

▶ 紙屋研究所/「死のイメージ」は恐怖ではなく「なつかしさ」

ponyo14_min

死と生・現実と物語・過去と未来のチャンプルー

蛇足になってしまいましたが、ポニョがキスした3人について。

ラストが「ほぼ全滅」ならば、ポニョにキスされることが生き残る条件なはずだったんです。(キスは縁が結ばれ再び生きることを意味します。また巡る春です。仏教では縁から解き放たれることを解脱と呼び、グランマンマーレも泡になることを悲劇だとは考えていないようでした。しかし、この映画のテーマは「生まれて来てよかった!」です。「生まれてこなきゃ良かった…」ではないのです。)

港町が水没したあとポンポン船に乗ってリサを探す宗介とポニョ。その道中、古い船に乗った夫婦と赤ん坊との出会いが丁寧に描かれます。その家族との別れ際、ポニョがわざわざ水面を走って戻って赤ん坊にキスをします。その後、トンネルを抜け魚に戻ったポニョ。そこにフジモトが下手な誘拐犯のようなセリフで宗介を誘います。さらにトキ婆さんが「騙されるなー!」と叫び、謎のスローモーションでポニョとキスをしてしまいます。この赤ん坊とトキ婆さんのシーンは変すぎます。話の本筋に関係ないし、なんなんだこれは?…こういう変なシーンのときには隠された意味がある合図です。青い服と可愛げのない顏。…似てる気がしてきました。まずトキ婆さんには津波と人面魚に関連したトラウマがあり、そのためポニョが金魚ではなく人面魚であることを見抜けます。その力とトラウマを授かった瞬間が、あの3人家族とポニョの出会いのシーンだったのではないでしょうか?

ん?時間軸がメチャクチャですって。そうなんです。あの水没した世界は、時間や虚実や生死がチャンポンになっている世界なのです。アフリカ神話でも語られている空と海とが混じる夢の場所。そこには決してたどり着くことはできないそうです。

こういった思考法が神話的思考です。この思考を復活させるための描写が「トキ婆さん=赤ん坊」であり、古今の船と飛行機と海洋生物が行き交う海なのです。

というわけで「この物語は人魚の肉であった」という私個人の想像を終わります。この肉で人間の世が、これからも八百代・八千代も続き、野生や人情を保ったまま太陽系から湧き出て、何億倍にも増え、願わくば身元を引き受けてくれる人に出会うことを祈っております。

▶ Attribute=51/ポニョ見て泣いた。これは宮崎駿が見てきた夢じゃないか。