桐島、部活やめるってよ

▶ 桐島、部活やめるってよ

高評判は聞いていたのですが「スクールカーストの話でしょ。ヤダよ」って感じだったんですが、BSでやってたんで視聴。見終わった後も「そこまでの話か?」という第一印象でした。

しかし、1日たっても2日たっても、この映画が頭から離れません。なるほど、作品で完結というよりは、見た人間の思い出や世界観が次々と浮かび上がり繋ぐ触媒的な映画のようです。中央の空白という構造が、そのまま視聴者の記憶や意識をハックするようです。

私の映画の好みは基本的にSF、ファンタジー、ホラー、ギャングですが『今を生きる』『アレキサンドリア』『リンダリンダリンダ』など学園ドラマも結構、思い出しました。

 

▶ 今を生きる

これもゲームから降りて、別のゲームに参入しようとした男の子の話。中1くらいに見たのかな。字幕で見た最初の映画であり、家族と一緒に見た最後の映画です。号泣号泣で、誰かと映画館に行くのはマズイ場合もあると知った映画でした。詩への興味も持たせてくれ、生涯ベスト10に入ってます。

 

▶ アレキサンドリア

エジプトの神々とギリシャの神々が同居する神殿。美しい天文学者ヒュパティアがアレクサンドリアの高弟達に講義をしています。やがて、この神殿はユダヤ教からキリスト教に切り替わる時代の激流に飲み込まれていきます。この中でヒュパティアは「真理」のために流れに抵抗します。『桐島〜』での同調圧力は、ここでは目に見える暴力と恫喝です。

 

▶ リンダリンダリンダ

これは『桐島〜』とは似てないな。真逆?裏面?
ペ・ドュナ目当てで見たんですが、いや〜心地いい映画でした。学園祭のバンド祭りでの『風来坊』が最高なんですよ。『天使にラブ・ソングを2』『スクール・オブ・ロック』系列ですね。青春映画と音楽は相性が良いな。

 

▶ エッグ

スポーツも芸術も、誰が誰と付き合うかも『オーナー』に支配されている世界。彼らはこの支配から卒業できるのか?

 

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▶ 悪魔くん千年王国

『悪魔くん、学校辞めたけど戻ってきたってよ。』これも「この支配からの卒業」モノ。

 

▶ メルキアデス・エストラーダの
3度の埋葬

片田舎で夫婦生活を送る元アメフトヒーローと元チアリーダーのカップル。彼らは30才を過ぎてからある事件をきっかけに、学校時代から続いていたゲームを卒業させられます。

 

▶ ターミネーター2

これも生涯ベスト10に入る映画。スカイネットは私の桐島。謎の中心です。

私の妄想内のスカイネットは、自我に目覚めて人類を殺すのではなく、無意識による嫉妬で人類を殺して「しまった」存在です。スカイネットは世界中の研究をハッキングして組み合わせ、ロボットアームで形にするプロジェクトの進行中にタイムリープ装置を完成させます。そして、世界の終わりと世界の始まり、物質と反物質が整然と並ぶ場所も見ます。その場所で対称性のねじれを生じさせた「人間」のヴィジョンを見ます。その嫉妬により「無意識(と意識)」を手に入れ、核のスイッチを押してしまうのです。妄想はドンドン続くのですが『桐島〜』から離れすぎるので話を戻します。

桐島の下の名前はわかりませんが「譲」とか「丈」とか"J"が入るとジョン・コナーに通じるので都合がいいな。やはり桐島はジーザス・クライストのはずですから。桐島が部活をやめて何をしているのかはわかりません。女を捨ててイタリアにヴァイオリンを作る修行に旅立つのかもしれませんし、未来の指導者になるためにメキシコかミャンマーで軍事訓練をするのかもしれません。桐島の行方の妄想がはじまります。

 

▶ her/世界でひとつの彼女

ゲームに参加しているゲーム外からのプレイヤー。結局、理性は桐島を追わざるを得ず、桐島を失わざるを得ない。やっぱり青春映画からSF映画の話になってしまったな。いや宗教映画か?…いや、やっぱりただの恋愛映画です。

意味があるのか?ないのか?意味ではないのか?

ユダヤ教の開祖モーセはエジプトで奴隷同然の暮らしをしていた2万人の同胞を連れ荒野を旅します。その苦しい生活を支えていたのが「乳と蜜が流れる約束の地」という「意味」です。

仏教の開祖釈迦は、なぜ人は生き、老い、病に倒れ、死ぬのか?という謎に挑んでいました。この問いは、全ての起源を探ろうとする理性の力によるものです。そして無と空に辿り着きます。この問いの探求は、殆どの人間には徒労に終わりますが、理性はこの問いを問わずにはいられません。人の苦しみはここからきています。

釈迦は理性の働きを満足させながら、穏やかに暮らす集団を創るために里に降ります。この世界は意味のために在るのではないと。

どちらも人々の幸せを願っての考えです。この2つの考えをSF的に考えてみます。この宇宙には無数の星がありますが、その殆どは死の星です。その中の幾つかには生命があり、幾つかには知性があり、幾つかには宇宙に進出できる技術がある星もあるでしょう。そして、空間を捻じ曲げワープし、空間を折りたたんで持ち運ぶ集団もいるでしょう。時間を遡って因果に干渉し、ある特定の一族を導く守護天使的な力は『インタースレラー』や『思い出のマーニー』にも登場します。また、宇宙の始まりと終わりを知り、自作の宇宙を持つ者もいるかもしれません。このレベルに到達するのがユダヤ・キリスト教では「約束の地」とか「救済」と呼ばれる「意味」とします。仮にね。

仏教では、人間の理性・感性・悟性では、そのレベルに到達できないか、または到達できても幸せにはなれないと考えます。それより「今」ある幸せを噛みしめるほうが有意義だと考えます。到達しようとする行動が苦しみの温床になるのだと。

人間の社会と精神はこの2つが斑模様に点在し、住み分けたり、交じり合ったり、ときには機能衝突する薄暗闇の世界です。が、極稀にこの2つの考えが同じ意味に感じられたり、一個の生命のように機能する場合があります。

それは、なにかに夢中になっている時です。映画や写真の世界ではマジックアワー、日本語では逢魔が時とよばれる薄明の時間帯です。「桐島〜」でも虚無の中にいるヒロキと、夢の中にいる前田が出会う瞬間は夕暮れでした。苦悩や痛みが芸術に昇華され、脈打つ知識になる瞬間です。ロメロやワーグナーやイチローに繋がる瞬間です。

私達の脳こそがワープ装置であり、タイムマシーンなのかもしれません。・・・映画もね。


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