崖の上のポニョ

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ポニョが好き

私は根っからのジプリファンですが「○○が一番すき!」ってこともなく、どの作品も見るたびに「最高傑作だ!すばらしい!」と思ってしまいます。ポニョもそう。

あとラジオも好きでして。『伊集院光の深夜の馬鹿力』や『たまむすび』→その流れで町山智博さんや宇田丸さんの映画批評も好んで聴くようになったのですが・・・ポニョは酷評なんですよね。他の映画批評は何でも楽しく聴けるのにポニョの回だけ怒りで最後まで聴けません。

そこで気付きます。私はポニョが大好きだったのだと。

▶ 町山智浩/人の親としてポニョで許せないこと
◉ 海水魚を入れたバケツに水道水を注ぐ子ども
◉ 息子に名前を呼び捨てさせる過剰に民主主義的な両親
◉ 幼い息子を乗せて危険運転を繰り返す母親
◉ 洪水の夜に5歳の子どもを自宅に置き去りにする母親

ナウシカ⇒もののけ⇒ポニョ

この物語は生命の始まりである海から始まります。海は生命の源であり人間にタンパク源と経済の流通路と娯楽を提供していますが、生身の人間は10分も潜ったら窒息する死の世界でもあります。暮らしを支えている死の世界。このモチーフは『風の谷のナウシカ』の腐海でも語られています。ここで少し『ナウシカ』や『もののけ』について振り返ってみましょう。まず腐海は、

◉ 人間に毒と物資を与える自然であり
◉ 人間から攻撃されたり保護されたりする自然であり
◉ 人間文明が創った人工の自然でもあった(漫画版)

宮崎さんは戦争・原爆・高度成長・公害の時代を生き「人間や文明は世界を滅ぼすかも?」という危機感を強烈に持った世代です。しかし『漫画版/風の谷のナウシカ』を執筆以降、人間の文明も野生の一形態であるという着想を得たようで、樹を切るな!→樹を切ったら植えよう、にシフトしたように見えます。

『もののけ姫』でのシシ神=ダイダラボッチも「命を与えもし、奪いもする」という二つの側面がある神です。さらに

◉ 昼には人面獣体の姿で、動物にシシ神(=ケモノの神・自然の神)と呼ばれる。
◉ 夜には獣面人体の姿で、人間にダイダラボッチ(=タタラの神=製鉄の神=文明の神)と呼ばれる。

ポニョとグランマンマーレが汚い海をそれほど気にしておらず、機械に活力を与えることも厭わないのは、こうした”清と濁・文明と自然をわけない”思考から来ているのかもしれません。しかし、文明も自然も食うも食われるも同価値とする神は、日々を汲々と暮らす我々には脅威にもなりえます。ですから、この原初の神を、国を生んだ神・人間を生んだ神・商業の神・縁結びの神というように社会を安全に運営するのに適した大きさにまで切り分けるのです。こうして原始的な神は縮小され、エビス様や招き猫へと姿を変えていきました。我々の思考回路も同様です。

しかし、強力なバリアに守られチェックされ続ける人間社会は徐々に生きる意味を見失いはじめます。命を大事にしすぎて、バリアに包みすぎて、命がなんなのか忘れそうになるのです。その隙間にオウムやテロといった虚無的な勢力が蔓延りはじめます。

しかし安心?してください。嵐に乗って少女がやってくるのです。

▼ 漫画版ナウシカの「生きねば……」の悲壮感
▼ もののけ姫の「生きろ」の義務感
▼ ポニョの「生まれてきてよかった」の祝祭感

 Smart Way! オータム マガジン/ポニョという作品にはある種の筋を通した合理性が存在する

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リサの力

この映画は不思議で説明不足なシーンが連続します。例えばフジモトがリサの家の結界に気付くシーン。

「本格的な結界が張ってある。どこでこんなことを覚えたのか?」

初見時はポニョが張ったのかと思いましたが、そんな描写はありません。そこで柵の持ち主であるリサが張ったんじゃないか?と想像してみました。

宗介が赤い服の女の子がポニョだと見破った瞬間、世界が輝きます。これは『千と千尋の神隠し』のラストで豚の群れのなかに両親がいないと見破ったシーンにも似ています。この輝く空を見てリサは「何か、ただならぬ状況が起こりはじめた」と瞬時に察知した表情をします。そして目の前の小さな女の子は異界から宗介を奪いに来た客だと認識し、全力で対峙する覚悟をします。

「どんなに不思議で、うれしくて、驚いても、今は落ち着こう」

そのもてなしはポニョの魔法の力を文明の力で押さえ込む技が駆使されます。

◉電気の灯りや音楽
◉言葉の力=次に何をするかイチイチ言葉にして誘導する
◉食べ物の力=その世界の食べ物を食べるとその世界の住人になる

このリサの儀式は、ポニョを(不完全ながら)人間にすることで異界との穴を(応急的に)閉じさせ、波を低くさせたのかもしれません。『魔女の宅急便』のウルスラや『ハウルの動く城』のソフィーのような潜在的な魔法使いのようにです。

そしてグランマンマーレの儀式によって、ポニョは完全に人間となり世界の綻びは完全に閉ざされます。

▶ 心を支える心/忘却のスープ/グループソウル/山の上のホテル/ユング心理学

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名前をつけてやる

ポニョをもてなすさいに、リサの家のガス・水・電気が行政システムから独立できることが丁寧に語られます。同時にモールスや電波で夫と交信するシーンも描かれています。これは一体、何のための描写なのでしょうか?

伊集院光さんの深夜ラジオで「宗介が母親を名前で呼ぶのが気持ち悪い」と話していました。私は「そんな家もあるかもな。父親(リサにとっては夫)が不在なんだし」くらいにしか思いませんでしたが、そういえば『千と千尋の神隠し』でも「名前を奪って支配する・名前を思い出せば解放される」というモチーフがあました。『風の谷のナウシカ(漫画版)』でも巨神兵に名前を付けると神になるシーンがあります。宮﨑駿さんは名前の魔力に関して思うところがありそうです。ここは、すこし深読んでみましょう。

ポニョも父親を「フジモト!悪い魔法使い!」と呼びます。もう名前ですらなく名字です。(グランマンマーレは「お母さん!」。これは名前というより名付けれないほど大きな存在という感じ。漫画版ナウシカの巨神兵オーマも太母という意味らしいし。)逆にフジモトは「ブリュンヒルデ」と呼んでいた娘を物語後半からはあっさり「ポニョ」と呼び、自分の支配が及ばなくなった存在だと認めています。

名前に関する最重要シーンは、やはり嵐に乗ってやって来た赤毛赤服の少女を「ポニョ?」と見抜くシーンでしょう。この「見抜く力」は、母親を「リサ」と呼ぶ環境から身に付いたのかもしれません。目の前の人間を所属や役割から判断するのではなく、そのまま、そのものを見る力。

またポニョが「宗ちゃんじゃないよ宗介だよ」のセリフにも私たちを貴方たちの都合で扱わないで!という主張が読み取れます。

私も父母を名前で呼びません。…が「それが異常だ」と思わない風土で育ちました。両親にも名前があるのに、息子がその名で呼んだことがないというのも不思議と言えば不思議です。

 

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人は昔々、魚だったのかもしれないね

なぜリサには、こんな力があるのでしょうか?リサは微かな魔法使い(さらに機械にも波にも詳しい)であるという、私の勝手な想像を押し進めてみます。

リサの荒々しい運転・荒々しい愛情表現は、まるで大きくなったポニョのようです。…ひょっとしたらリサも元人魚?!ポニョの年のはなれた姉?…そういえば、グランマンマーレ・リサ・ポニョには「波を読める。機械を直せる、または機械の操縦に長ける。愛した人が海の男。」という共通点があります。

◉ グランマンマーレの愛人・フジモト。ヒレ船の船長。
◉ リサの夫・康一。小金井丸の船長。
◉ ポニョの恋人の宗介。ポンポン船の船長。

リサは元人魚であり、愛した康一に「リサ?」と名を呼ばれ人間になったのかもしれない!?そして、そのことが誰か(観客にも!)に知られたら泡になってしまう掟なのかも!?

この空想のお陰で解けた謎があります。それは「異界から訪れたポニョと可愛い息子を二人きりにして、なぜリサはひまわり園に向かったのか?」という謎です。最初は彼女の職業意識かと思ったのですが、 どうも不自然です。あんなに大好きなはずの夫も息子もほったらかして、暗闇に動く光を見てひまわり園に向かい、そこでグランマンマーレと長いおしゃべりをしているのです。まるで彼女に会いにいったかのようです。

リサが元人魚であったのならば、ポニョと宗介を二人きりにした意味も、グランマンマーレとの長い会話が聞こえない意味も明確に想像できてきます。

リサ「私が19才で受けた試練を5才の宗介とポニョにできるでしょうか?」
ママ「だいじょうV」

では、なぜ宮崎さんは、なぜこんな複雑な脚本にしたのでしょう?宮崎さんは『もののけ姫』以降、一見しただけでは不自然・意味不明に見える描写を作中に散りばめ始めました。これは【1+1=2】的な映画より、【1+X=2】的な映画の方が問題を解く分の面白さがある、という単純な理由からだと思われます。
そのうえで、この「読み解く能力」は映画を楽しむ力だけではなく、社会を構成する力だとも考えている!……かもしれません。

◉ 見抜く力が物語を展開させるシーンがそもそも映画として面白い。
◉ 映画を読み解くのも映画の醍醐味のひとつ。そのための虫食いシナリオ。
◉ 世の中を読み解き受け止める男の子が増えて欲しい、そんな男の子を育てられる母親が増えて欲しいという監督の願い。(=女の子は大丈夫。)

「見抜く・読み解く・受け止める」が、シーン・シナリオ・テーマといった異なった次元で語られ、また映画として融合しています。そして『ポニョ』を見た子供たちは「語られてはいないが私の母はグランマンマーレの娘」であり、「忘れてはいるが私もグランマンマーレの娘」であることに、いつか気付くのでしょう。この魔法は将来、女の子が男の子をゲットするときに役立つはずです。…男の子は相手の正体が魚や豹や蛇や兎だと見抜いたうえで受け止めてください。

▶ Dog Planet Cafe~犬惑星~/本当は怖いポニョの都市伝説

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宗介の力

『鶴の恩返し』や『雪女』といった異類婚姻譚では「自然界の力を持った女の問いかけに、間違った応えをした男が酷い目にあう」物語が数多くあります。財産を取り上げられたり、子供を奪われたり、目を潰されたり、国を滅ぼされたり。しかし、宗介は様々な問いに的確な応えを「し続け」ます。

何気ないシーンですが、それを象徴するシーンがあります。宮崎アニメにたびたび描かれる【男の子が女の子のために暗闇の中で火を灯す】です。パズーやルパンが暗闇でマッチをする場面では大抵1、2回は失敗しますが、宗介のポンポン船は一発で出発します。宗介が今までの男共とはチト違うという意味であり、サンと離れて暮らすことを選択したアシタカより、度量の広い男なのかもしれません。

宗介がさらに凄いのは、ヒロインは化け物だし、状況は解らんし、いつのまにか世界の運命が賭けられてるし、よくパニックにならずに大大円まで行けたもんです。 握手を求めたフジモトの気持ちがよぉーく解ります。このシーンが一番ホロリとしちゃうなー。

…ただ少し気がかりなのは、宗介からしなければならなかったキスをポニョからしちゃうところです。神話や民話のパターンからいうと、これはチョットまずい。でも、まぁいいか。

▶ blackbird diaries/小さな正義・小さな方法論で何かを解決したように錯覚させるドラマはもうやめにして、この世の混沌を認識してそれでも自分の暮らしを生きる話にする

▶ whimsy inflorescencia/男の子の教育に失敗したら、世界は滅ぶ

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フジモトの力

宮崎アニメ伝統の「自然vs文明」とか「世界の危機」を背負っている芸術家風の男。グランマンマーレに恋して人間をやめているようです。少し紅の豚とカブりますね。

生命と機械が融合したような船に乗り、高純度の海のエキスを抽出したり、海底牧場を運営するなど、非常に「科学者的な態度」で海とつきあっています。

しかし、他の宮崎作品の「自然vs文明」キャラに比べると随分と滑稽に描かれています。だって、世界の危機を叫んでいるのはフジモトだけなんですもの。ポニョもグランマンマーレも汚い海も原初の海もそれほど気にしていませんし、機械に活力を与えることも厭いません。

またフジモトには境界線に関する描写が繰り返し描かれます。海では空気の膜に覆われ、陸では深海の水が撒かれた場所しか歩きません。人間文明の廃液が混じった海水を嫌い、純粋な海のエキスを抽出し貯めています。これらは清浄と汚濁を分けて考えているという描写です。宮崎駿さんがよく使うモチーフであり、グランマンマーレの大きさにはなれない男たちのテーマでもあります。

他に印象的だったのがリサの家の柵を越えられないシーン。魔法がかかっている地域では人を入れたくない場所には柵を立てるだけで十分ですが、魔法がかかってない地域では高いコンクリの壁と鉄条網が必要になってきます。

フジモトの理想はデボン紀の海。いろいろ難しい理屈はこねてるようですが、ただ単にグランマンマーレが懐かしんだ海をプレゼントしたいだけなのでしょう。…まぁ、当のグランマンマーレは奇麗だろうが汚かろうが、海は海だと気にしないんでしょうけどね。

 山口敏太郎の妖怪・都市伝説・UMAワールド「ブログ妖怪王」フジモト=手塚治虫・グランマンマーレ=ディズニー・ポニョ=宮崎駿説

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ポニョの力

「死の世界」を表現しようとして「生の世界」が表現されことを『ポニョ』は見せてくれました。この【テーマの怖さ?】と【表現されたモノの楽しさ?】を、そのままを具現化しているのが主人公のポニョです。ポニョはおぞましくて可愛くなくてはいけません。生命がそうであるように。ここで「海水型ポニョを水道水に入れて大丈夫?」を考えてみます。まずポニョは

(1)フジモト研究室のキレイな水槽を抜け出して
(2)生命豊かな海と戯れ、
(3)港の汚れた海に辿り着き、
(4)リサの家の貯水タンクの水(おそらく雨水)に入れられ
(5)ひまわり園の水道水(塩素入り)に入れられ、
(6)フジモトによって(1)に連れ帰されます。

フジモトが「汚らわしい人間たちを一掃するため」に貯めていた海のエネルギーでポニョは人間に変身し、人間の男の子に会いにいくのです。素晴らしい構造です。その後も、

◉ 舞台が海→陸→文明社会→航海→船が沈み→トンネル
◉ 姿形も魚→両生類→鳥→人間→トンネルでの先祖帰り
◉ 何度も寝て起きる

メタモルフォーゼが波のように行きつ戻りつ反復されます。飛躍して考えると、息がしにくい現代社会も、魚が陸に上がったように克服できるフロンティアだと考えたい。人間の知性と技術への制御については『ナウシカ』で考え抜き、少し悲しい気分になったので、今日生きるため、明日生きるために開き直ったのかも?

そしてポニョを受け入れた宗介に握手を求めるフジモト。人間をやめたポルコもフィオのキスで人間に戻り、人間に嫌気が差している監督も子供に出会うと、やはり嬉しい。だからこそ宮崎さんの作品はテーマが暗く重くても、表現としては明るく風に乗れるのです。それこそ生命。これこそ芸の術。 

▶ God & Golem, Inc. /あなたは中間存在を愛せるのか/「変身した姿」が不気味なのではなく「変身する過程そのもの」が何度も繰り返されることが不気味なのです。

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津波後の世界は死後の世界か?

さてラストのアレは死後の世界なのか?という問題です。初見時は「あの洪水を生き残ったのはトキ婆さん・宗介・記憶を失った赤毛の女の子の3人だけ。その女の子のための作られた物語が『崖の上のポニョ』だ。」ということにしました。…しかし、どうなのかなー、それじゃあんまりだなー。

「この世に悲劇は尽きることはない。そんなとき物語にはどんな力があるのか?それこそを子供たちに知って欲しい。しかし、そんな作り物を子供たちに見せたくもない。」宮崎さんはそんな葛藤を持ちながら作り始め、作り終えたのかもしれません。

結果、ポニョが港の人の命を奪った物語にも、老人たちにエネルギーを与えた物語にも読める作品になりました。視聴者も、その日の気分によって読み変えられるのですから2度美味しい。これが演出技術だとしたら凄い!…んですが、恐らく強引にラストをハッピーにしたんじゃないかなー。物語の引力に従うと悲劇になるところを、作家の意思でハッピーにするというのも、強力な福音です。

▶ 紙屋研究所/「死のイメージ」は恐怖ではなく「なつかしさ」

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死と生・現実と物語・過去と未来のチャンプルー

蛇足になってしまいましたが、ポニョがキスした3人について。

ラストが「ほぼ全滅」ならば、ポニョにキスされることが生き残る条件なはずだったんです。(キスは縁が結ばれ再び生きることを意味します。また巡る春です。仏教では縁から解き放たれることを解脱と呼び、グランマンマーレも泡になることを悲劇だとは考えていないようでした。しかし、この映画のテーマは「生まれて来てよかった!」です。「生まれてこなきゃ良かった…」ではないのです。)

港町が水没したあとポンポン船に乗ってリサを探す宗介とポニョ。その道中、古い船に乗った夫婦と赤ん坊との出会いが丁寧に描かれます。その家族との別れ際、ポニョがわざわざ水面を走って戻って赤ん坊にキスをします。その後、トンネルを抜け魚に戻ったポニョ。そこにフジモトが下手な誘拐犯のようなセリフで宗介を誘います。さらにトキ婆さんが「騙されるなー!」と叫び、謎のスローモーションでポニョとキスをしてしまいます。この赤ん坊とトキ婆さんのシーンは変すぎます。話の本筋に関係ないし、なんなんだこれは?…こういう変なシーンのときには隠された意味がある合図です。青い服と可愛げのない顏。…似てる気がしてきました。まずトキ婆さんには津波と人面魚に関連したトラウマがあり、そのためポニョが金魚ではなく人面魚であることを見抜けます。その力とトラウマを授かった瞬間が、あの3人家族とポニョの出会いのシーンだったのではないでしょうか?

ん?時間軸がメチャクチャですって。そうなんです。あの水没した世界は、時間や虚実や生死がチャンポンになっている世界なのです。アフリカ神話でも語られている空と海とが混じる夢の場所。そこには決してたどり着くことはできないそうです。

こういった思考法が神話的思考です。この思考を復活させるための描写が「トキ婆さん=赤ん坊」であり、古今の船と飛行機と海洋生物が行き交う海なのです。

というわけで「この物語は人魚の肉であった」という私個人の想像を終わります。この肉で人間の世が、これからも八百代・八千代も続き、野生や人情を保ったまま太陽系から湧き出て、何億倍にも増え、願わくば身元を引き受けてくれる人に出会うことを祈っております。

▶ Attribute=51/ポニョ見て泣いた。これは宮崎駿が見てきた夢じゃないか。

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